※学校で習う攘夷運動からの歴史です。
尊王攘夷論…尊王論(天皇尊崇思想)と攘夷論(外国人排斥思想)とが結合した政治思想。尊王攘夷運動を討幕運動へと発展させる。
VS
公武合体…公 (朝廷)と武(幕府)の提携による政局安定策。
【攘夷運動】
<尊王攘夷派の進出>
長州藩:松田松蔭(安政の大獄で刑死)・桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作・久坂玄瑞など
★松下村塾…吉田松陰の塾で、 久坂玄瑞や高杉晋作ら尊重攘夷派の人材を育てた。
土佐藩:武市半平太など (*土佐藩主山内容堂は公武合体派)
水戸藩:頼山陽 頼三樹三郎など
急進派公家:三条実美…八月十八日の政変で失脚。 王政復古後、 議定 となり、明治新政府では太政大臣となる。
<攘夷派志士らによる外国人殺傷事件>”異人切り”
1860年 ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン が暗殺される。
1861年 東禅寺事件…水戸藩浪士がイギリス仮公使館の東禅寺を襲撃し、 イギリス人を殺傷した。
1862年 生麦事件・薩摩藩島津久光一行が江戸からの帰途、その従士が横浜近郊の生麦村で、イギリス人4名の行列への非礼を咎め、3名を殺傷した。
★のち薩英戦争を招く原因となる。
1862年 イギリス公使館焼討ち事件…高杉晋作らが建築中のイギリス公使館を全焼させた。
【公武合体政策】
1和宮降嫁…幕府の公武合体政策を推進した老中安藤信正が、孝明天皇の妹である和字を4代将軍家茂の妻とし、幕の融和と幕府権威の回復をはかろうとした。
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1862年 地下門外の変…和宮降嫁に憤激した尊攘派の志士らが、江戸城坂下門外で安藤信正を襲い失脚させた。
★桜田門外の変とまじらないように
2 寺田屋事件…1862年、公武合体派の中心として島津久光(薩摩藩)が 上京した際、 薩摩藩急進尊攘派の有馬新七らを斬殺させた。
3 文久の改革…1862年、島津久光(斉彬の弟)が勅使大原重徳を奉じて江戸に下向し、 勅命により幕政改革を推進した。
内容
・将軍御見職(将軍の補佐)に一橋慶喜を任じる。
・政事総裁職(大老に相当)に 松平慶永(越前藩士)を任じる。
・京都守護職(京都の治安維持)に 松平容保(会津藩主)を任ず。
この指揮下(京都守護職)に新選(撰)組(浪士組)局長 近藤勇がおかれ、尊王攘夷派制圧の活動をした。
・参勤交代を緩和して、3年に1回とする。
・西洋式軍制の採用
【攘夷運動の激化と挫折】
長州藩は急進派公家 三条実美らと結んで朝廷を動かし、攘夷の決行を幕府にせまる。
1863年4月 幕府はやむなく5月10日を攘夷決行の日とすることを諸藩に命令。
1863年5月 長州藩 外国船砲事件(下関事件)
長州藩が朝命を受け、その日、下関海峡を通過する米・仏・蘭船を砲撃し、攘夷を実行に移した。
★のち、報復として四国艦隊下関砲撃準備おこる。
同年8月 長州藩を中心に尊王攘夷派が、天皇の攘夷祈願のため大和行幸を計画。
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八月十八日の政変
公武合体派の薩摩藩と会津藩は、朝廷内の公武合体派公家と結び、尊攘派の長州藩と急進派公家の三条実美らを京都から追放させた。
※七卿落ち: この結果、 三条実美ら公家7名が長州に逃れた。
【各地の尊攘派挙兵事件】(全て失敗)
1863年8月 天誅組の変…尊攘派公卿中山忠光を擁して、土佐藩士吉村虎 太郎らが大和国五条の代官所を襲撃した。
同年 10月 生野の変…福岡藩士平野国巨らが沢宣嘉を擁して、 但馬生野の代官所を襲う。
1864年3月 天狗堂の乱 水戸藩の尊攘派志藤田小四郎らが挙兵。
【公武合体派のまきかえし】
1864年6月 池田屋事件
新撰組 (局長 近藤勇 副長 土方歳)が、 京都の池田屋に集合した尊攘派を襲撃した。
同年 7月 禁門の変(蛤御門の変)池田屋事件を契機に、八月十八日の政変で京都を追われた
長州藩の急進派が入京し、薩摩・会津・桑名藩らの藩兵と皇居内外で戦ったが、敗走した。
1864年8月四国艦隊下関砲撃事件 (下関戦争)
長州藩外国船砲撃事件の報復として、英(中心)・仏・米・蘭の四国連合艦隊が下関を砲撃し、 下関砲台を占領した。
この結果、長州藩では開国を主張する勢力が台頭する。
同年 7月〜12月 第一次長州征討(征伐)
禁門の変を理由に、 長州征討の勅命を受けた幕府軍 が長州藩を攻めたが、戦わずして恭順の態度をとり 藩内の尊攘派を弾圧した。
【イギリス・フランスの対日政策】
1865年 安政の五カ国条約の条約勅許が実現(兵庫開港だけは認めず)
1866年 改税約書調印…輸入の関税を平均20%から一律5%に引き下げ、 諸外国に有利となった。(輸超出から輸入超となる)
イギリス…公使駐日イギリス公使オールコック(のちパークス)は薩長両藩に接近
フランス…駐日フランス公使ロッシュは、幕府を支援。
倒幕(討幕)運動
【倒幕運動の展開】
<攘夷から倒幕へ>
長州藩…1864年12月、 高杉晋作が率いる奇兵隊が挙兵し、藩内保守派を退け、 藩論を倒幕に転じさせる。
★奇兵隊 長州藩の正規の藩兵以外で組織された軍隊で、門閥・身分に関わらない志願兵からなる。
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木戸孝允(元 桂小五郎)らも攘夷の不可能さをさとり、藩論を倒幕へと転換させ、イギリスに接近し、大村益次郎を登用(大阪の適塾で学んだ)して軍備を整える。
薩摩藩…1863年7月 薩英戦争
生麦事件の報復のため、イギリス 艦隊に鹿児島を砲撃される。
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攘夷の不可能を認識し、開国の考えへ。
改革派の下級藩士西郷隆盛や大久保利通が中心となり、軍備を充実させる。
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藤長同盟(連合) 成立
土佐藩士坂本龍馬と中岡慎太郎らの仲介により、 薩摩・長州藩は軍事同盟を密約し、反幕府の態度を固めた。
【幕府の孤立】
1866年6月 幕府は、第二次長州征討(征伐) を宣言。
薩摩藩は出陣せず。
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幕府軍は各地で敗北。
14代将軍家茂(♡和宮)が大坂城で病死したため、幕府軍撤退。
同年12月 徳川慶喜が15代将軍に就任し、 フランスの援助で幕政の立て直しをはかる。 (慶応の改革)
公武合体派の立場をとる孝明天皇が急死。→江戸幕府の孤立
<幕末の社会>
1 打ちこわしや世直し一揆の頻発。
2教派神道…幕末から明治初期に創始され、政府が宗教として公認された13派の神道。
天理教:中山みき が創始。
金光教:川手文治郎が創始。
黒住教:無住宗忠が創始。
3 民衆運動の高揚…伊勢神宮への集団参詣である御蔭参りの大流行
60年ごとにおかげ年
”ええじゃないか”の大乱舞。 1867年秋~冬にかけて、東海道・近畿・四国地方に広がった民衆の狂乱。
【幕府の滅亡】
1867年10月14日 倒幕の密勅
大政奉還申し入れ直前、倒幕派の公家岩倉具視と結んでいた薩長両藩は、 慶喜討伐の命令を手に入れていた。
1867年10月14日 大政奉還の上表…15代将軍徳川慶喜が朝廷への政権を返上したこと。
★大政奉還論を後藤象二郎・坂本竜馬 (土佐藩士)が構想し、これを山内豊信(前土佐藩主)が慶喜に建議した。
同年11月15日 土佐藩士坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される。
「船中八策」の中で、天皇のもとでの雄藩連合政権を 主張する公議政体論を唱える。
1867年12月9日 王政復古の大号令 クーデター
薩長の武力倒幕派が、公家の岩倉具視と結んで計画したもので、天皇中心の新政府樹立を目指した。
・幕府 摂政、関白の廃絶
・天皇の下に、総裁、謡定、参与 の三職を設置。
↓ 約260年余 続いた
同日 夜 三職による小御所会議(三職会議)で、
前将軍徳川慶喜の辞官納地を決定した。→旧幕府側は反発
(内大臣辞任 納地領地の返上)
【戊辰戦争】
1868年1月 鳥羽伏見の戦い
慶喜への辞官納地の処分に憤激した旧幕府側が京都に進撃したが、新政府軍に敗退。
戊辰戦争の発端となる。
新政府は、慶喜を朝敵とする東征軍 (官軍)を発する。
各地で民衆の草莽隊が組織され、 新政府軍に協力する。
※赤報隊の相楽総三らが、年貢半減令を掲げたが、偽官軍として処刑された。
同4月 江戸(無血)開場
江戸攻撃に際し、慶喜の命をうけた勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛が会談し、幕府は江戸城を無血で明け渡した。
同年5月 奥羽越列藩同明 結成…東北(奥羽)諸藩の反新政府同盟
同年5月 上野戦争…慶喜を擁護するための彰義隊が、 新政府軍に反抗したが、敗退した。
同年9月 会津藩 降伏…会津若松城で激戦となり、少年の白虎隊なども参加したが敗戦。
会津藩主松平容保(京都守護職であった)
1869年5月 五稜郭の戦い
幕巨榎本武揚らの旧幕府軍が、箱館の五稜郭に立てこもり抗戦したが降伏し、 戊辰戦争は終結した。
★のち、榎本武揚は明治政府に参画し、 活躍する。
★犬辰戦争…鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いまでの新政府軍と旧幕府勢力間の戦争のこと。
参考文献一覧
高校時代の授業プリント (このページ全てプリント引用してます。実際のプリントは漫画や色々なことが沢山書き込まれており、先生の作成したプリントは本当に楽しく学べる授業でした。)