“coming soon”
制作途中です。
前置きとして初めに理解し覚えておきたいのは、少年たちの自刀により有名となった白虎隊ですが、白虎隊以外にも年齢別に朱雀、青龍、玄武、があり、悲劇の白虎隊と呼ばれるのは、その中の白虎隊の中の二番隊の面々という事です。
何故白虎隊が伝わり資料が残っているのか
・酒井峰治が書き残した「戊辰戦争実歴談」が仏壇から見つかったことで漸くにその実情も知られた。
・飯沼貞吉が著者・監修したりしている本が現存している。
本人たちが残した本物を読みたい方詳しく知りたい方はこちらのHPがおすすめです。
原文が読めたり、書籍の一覧が見れます。
※別リンク先に飛びます。自己責任でよろしくお願いします。
白虎隊二番隊が巡った道
嘆願書を軍事奉行に差し出す。聞き入れられ白虎隊は軍事奉行に属し、訓練に励む。
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【旧暦 八月二十二日 三十七名 出陣】
朝、士中白虎隊に集合をかけた回しぶみがまわる。
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滝沢本陣(風雨)
戸ノ口の一隊から助けが求められ日向内記指揮の元出陣
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強清水村
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白虎隊陣地
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十六橋(夕 西軍占領)
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戸ノ口原の戦場菰土山 露営(夜 雨)
戸ノ口原の戦場の戦場で食料を探しに行った隊長とはぐれる。
白虎隊が夕方新撰組と交代するまでいた菰土山陣地跡
最後の食事(握り飯)
明けなば討死と覚悟したる少年、三々五々かの地この地に団らんし、無言の中に慈母姉妹に別れを告ぐる折、飢えたるときの補いにもと与えられたる食物を腰より取り出し、さを食らい、ともに文武を学びたるの既往を談じ、又明けなば人に後れじとの心事を話し、寝る間もなく東天正に明けなんとす。
『白虎隊頼末記』より
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戸ノ口原奮戦の地
人馬の気配を感じ、茂みの中に散開、合図と同時に一斉に射撃。西軍の勢いにかなわず次第に包囲され、退却。バラバラになってしまい、負傷者を労りつつ若松城を目指す。(二十人ほどの隊員がいた。)
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洞門
不動滝について前方にはすでに敵が来ていた為、飯盛山へ。
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さざえ堂
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飯盛山 自刀の地
【旧暦 八月二十三日 十六(二十)名 自刀】
絵や写真では皆一緒に自刀しているが実際はそうでなかったと言われている。
ここではいくつか諸説があるので全て紹介します。
【何故自刀したのか】
①鶴ヶ城が炎と黒煙に包まれているように見えた(落城したと思った。)
②責務を果たせず顔向けができないと感じたから
白虎隊二番隊で自刀したメンバーは皆、地位や家柄、学力武力共に皆優秀であった為
責任感などが人一倍強かった。
参考:市内掲示看板
白虎隊 隊員について
会津の組織
白虎隊の他にも会津藩の組織は他にもあった。
少年隊 | |||
白虎隊 | 16~17歳 | 役343 | 士中一番隊 49名、二番隊 42名 寄合一番隊 106名、二番隊 67名 足軽隊 79名 合計343名 |
朱雀隊 | 18~35歳 | 役1200名 | 士中一番隊から四番隊 各100名前後 寄合一番隊から四番隊 各100名前後 足軽一番隊から四番隊 各100名前後 |
青龍隊 | 36~49歳 | 約900名 | 士中一番隊から三番隊 各100名前後 寄合一番隊から二番隊 各100名前後 足軽一番隊から四番隊 各100名前後 |
玄武隊 | 50~56歳 | 約400名 | 士中一番隊 100名前後 寄合一番隊 100名前後 足軽一番隊から二番隊 各100名前後 |
※白虎隊 (15歳と生年月日を偽って出陣・少年隊として13歳の少年も加わる)
白虎隊概要
編 成 | 少年隊士 引卆将校 (大人) | 315名 28名 | 士中1番、2番、奇合1番、2番足軽と 5中隊に分ける。 5中隊に配属 |
自 刀 | 飯 盛 山 自 在 院 (市内の寺) | 19名 1名 | 士中2番隊 足軽中隊 (少年のみで引率者の自刀はない) |
戦 死 | 少年隊士 引卆将校 | 30名 4名 | 士中1番隊、奇合1番、2番 足軽の各隊 |
生き残った人たち | 少年隊士 引卆将校 | 265名 24名 | 明治、大正、昭和と各方面で勝欲した。 山川健次郎は東京で帝大総長となっている。 |
白虎隊二番隊・自刀
紹介文→日新館
肖像画→一八六九年の会津藩(鶴ヶ城にも展示あり)
戊辰戦争から一九年を記念して開催された博覧会にために描かれたもので、当時の紙幣に用いられた聖徳太子などの肖像画を描いた馬掘喜孝画伯の作品である。当然彼らの肖像写真などはなく、文字などで残された彼らの特徴などから書き起こされたものである。
【白虎隊二番隊生存者】
飯沼貞吉(16歳)
白虎隊ただ一人の生存者である、
二度と会津には戻らず
昭和六年「会津のことは思い出したくない。唯々心苦しい」と云いつつ生涯を終えた。
※じらくの補足 白虎隊の士中二番隊の自刀した中での生存者
酒井峰治
明治維新後は暫くは会津にいたが、その後は旭川市(北海道)に移り精米業を営みながら生涯を送った。
ただ、自分が白虎士であったことは生前中は家族にも
話しをしていなかった為、長い間消息が分からなかった。平成五年(1993年)酒井家の仏壇彼が書き残した「戊辰戦争実歴談」が見つかったことで漸くにその実情も知られることのなったのである。
【白虎隊二番隊死亡者】

安達藤三郎(17歳)
文武両道を好み、人がらは優しく温和であり、戦死した父、兄の後を追った。

有賀織之助(16歳)
勇敢な性格で、危険に向かって臆するところがなかった。

池上新太郎(16歳)
飯盛山には、傷が深く、伊藤悌次郎津田捨蔵と共に遅れて到着した。

石田 和助(16歳)
性格は剛直で、飯盛山では一番最初に切腹した。
兄の義雄(日下姓)は、後の長崎、福島県知事である。

石山虎之助(17歳)
温厚で沈重、非常の時に真実の勇気を持った。

伊藤悌次郎(16歳)
勤勉な学習ぶりを認められ、
藩公から何度か褒賞を賜った。

伊藤俊彦(16歳)
温情で誠実。
情深い性格であった。

井深茂太郎(16歳)
文武両道に秀でていた。
13歳で大学に学び度胸もあった。
一族にソニーの井深大氏、明治学院の井深梶之助先生がいる。

篠田儀三郎(17歳)
誠実、実直で約束は必ず守った。
二番隊三十七名のリーダーであった。

鈴木源吉(17歳)
槍術、剣術をよく学び、砲術を得意とした。側医の次男。

永瀬雄次(16歳)
武芸に専念し、特に砲術を良くした。
草色の服を着て出陣した。

西川勝太郎(16歳)
落ち着きがあり、物に動じない性格であった。
敵の偵察をした。

津川喜代美(16歳)
情深い性格で勇気があった。
子供が狂犬にかまれそうになった時、自分の指を犠牲にしてまで助けた。

津田捨蔵(17歳)
素朴で活発な人柄であった。
敵の偵察をした。

野村駒四郎(17歳)
本を読むことを好んだ。
自刀よりも戦い通すことを望み、会津が滅びることを認めなかった。

林八十治(16歳)
少々太目の隊士ではあったが、武技にすぐれていた。

間瀬源七郎(17歳)
性格は温和で、容姿端麗、大柄ながら色白であった。
出陣の時、彼には婚約者がいた。

簗瀬勝三郎(17歳)
武術全般に励み、出陣にはフランス式の軍装を最初に装着した。

簗瀬 武治(16歳)
おとなしい性格ではあったが、志気勇敢で、代々からの名刀を父からいただいて出陣した。