名前について
郡長政(こおりながまさ)については様々な諸説があります。
郡長正は、戊辰戦争の責任を一身に負い切腹した萱野権兵衛の次男でありますが、権兵衛の自刃によって萱野家の姓が断絶したため、母方の姓をとって郡と称しました。 | <引用> |
郡長政は萱野権兵衛の次男。父が戊辰戦争の会津藩の責任を一身に背負い、切腹したことから家族は萱野姓を名乗ることが出来なくなり、母の姓「郡」を名乗りました (先祖の姓という説もあり)。 | <引用> |
まず郡長政についての話は主にふたとおりあります。
今となってはどちらの話が正しいのか分からないのでどちらも掲載いたします。
初めに
会津から見た郡長政
会津の話は嘘だった?
戊辰戦争後に、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学しましたが、食べ物が口に合わないと母への手紙に書いた後、母より届いた戒めの手紙を落としてしまい、拾った豊津藩士の子弟に大衆の面前でののしられました。 会津武士道を辱めたと感じた長正は、会津武士の屈辱をはらそうと、藩対抗剣道大会において完勝した後、16歳という若さで切腹して果てました。<引用>
育徳館の後身である福岡県立豊津高等学校は、会津の石2基などを配して郡長正記念庭園を昭和31年10月に校内に造成し、今なお郡長正精神を顕彰しています。豊津高等学校は平成19年に育徳館高等学校に名称を変更しました。
また、豊津町では毎年命日に当たる5月1日に豊津郷土史会の皆様により、郡長正墓前祭を盛大に挙行していただいております。
幼いながらも守ろうとした「武士の誇り」「会津の誇り」
成績優秀だった長正は、選ばれて小笠原藩の育徳館に留学。学問や武道など精神鍛練に励む毎日を送っていましたが、ある日郷愁を覚えた長正は、母に会津の干し柿(みしらず柿)が食べたいという旨を手紙に書き送ります。しかし、届いた返事は次のような厳しい内容でした。「おまえは斗南(会津藩がとりつぶされて流された青森県下北の地)へ行った人々の苦労を知っていますか。会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。再びこのようなことを言ってよこすならおまえは萱野権兵衛の子ではありません」
長正はショックを受けると同時に深く反省し、戒めとしてその手紙を大切に持ち歩いていましたが、ある日館内で落としてしまいます。それを拾って読んだ小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られ、深く責任を感じた長正は死んで恥をそそぐと表明。そして一同の見守る中で切腹して果てました。
会津士魂を辱めたと感じた長正にとって、この出来事は『ならぬことはならぬ』という教えの中の『ならぬ』ことだったのです。
長正がこの出来事に耐え、世に出て活躍することを「雪辱を果たす」としたならば、八重のように名を馳せたのではないか・・・そう思うと残念でなりません。しかし、八重も女性ながら強い信念を持ち、自分を貫いて生きました。これはまさに会津という地が育む気高い心の表れ。この少年は、短い人生の中でもこの心が既に培われており、自分にとっての誇りを守ったのでしょう。
会津の話は嘘だった?
歴史の検証シリーズ ② 宇都宮泰長氏 「会津少年郡長正自刃の真相」
お墓について
郡長政はお墓が二つあります。
天寧寺